発達したいブログ

コンサータとかいう人類の叡智の結晶

メモ的な

・歴史のお勉強

 できれば、江戸時代から現在までの、進学校の高校生に講義できるくらいの歴史認識を持ちたい。特に、近現代史。

 

・思想とか

これが正直、どっから手つけてよいのか、いかに勉強すればよいのか、むずかしす。

原著(翻訳)を読むべきなのか、入門書的なので済ますのか。

デカルトからやるべきなのか、ニーチェくらいからにすべきなのか。

個別に勉強するのか、流れで勉強するのか。

つまり、目的が定まらないから、勉強の仕方も定まらない。

勉強それ自体が目的になっているのは、ちょっと効率がよくない。

うーむ。

 

・言語

来学期やる。おそらく。

 

・あそび

興味あったが行ったことないとこ、もう一度ゆきたいところ、積極的にゆきたい。

人に近づくことへの恐怖心を少なくしたい。

 

アイドルを楽しむこと

特に、48系列について。

 

直に言って、消費だ。

ぼくたちは少女たちを、消費している。

 

いかに正当化しようとも、自分が少女たちを消費する構造の再生産に、積極的に加担していることは、事実なわけで。否定できない。

 

私たち(アイドルオタク)は、そのことを自覚しなければならない。

そして、そのことを受け止めた上で、それでもなお、アイドルを楽しむのかということを、問わなければならない。

オタクであるからこそ、オタクとしての「プライド」があるからこそ、そのことを自問しなければならないと思う。

 

「アイドルを搾取する運営」と「アイドルの味方である自分」という図式が大嫌いだ。

むろん、運営批判厨うぜえみたいなことが言いたいわけではないです。

自分が、アイドル、大好きなアイドル、を搾取する構造に肩入れしていることの責任を塗りぶすような図式を採用することが、誠実であるとはまったく思えないというはなし。

ちな、誠実とかまじどうでもいい、とかっていうのはまた、べつのはなしです。

さらにちな、そういう人は、「プライド」がないという意味においてぼくはオタクではないと思ってる。

 

ここまで書いてアレだが、ぼくは、消費されることが悪いと言うつもりはないです。

その構造への加担も、悪いというつもりはないです。そんなこと言ったらモリナガのミルクチョコレート食べれんくなっちゃうし。AV見れんくなっちゃうし。

 

ただ、オタクを自称する以上、対象に関してありうる責任について、自覚的でありたいなぁ、ということ。

 

ふむ、オタクを自称する以上、を除けばわりと一般的なとこに落ち着いた。

 

とりあえず、ゆりあかわいいしにたい

2012.5.25

スピノザの『エチカ』を読んだ。

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※なんか、『エチカ』っていう文字がリンクになったり、画像がリンクになってたりとか、どうやるんすかね。気が向いたら調べて直す。 

 
五部構成をとる。
第一部「神について」
第二部「精神の本性及び起源について」
第三部「感情の起源及び本性について」
第四部「人間の隷属あるいは感情の力について」
第五部「知性の能力あるいは人間の自由について」
そのうち、それぞれの部について書いて、こっからリンクで飛べるようにしたいんだけど、HTMLとかもう忘れちゃってまじてへぺろ。つまり受験勉強ファック。
 
◆概要
 少数の公理から出発し演繹により定理を導いていくという、幾何学的な手法による哲学の体系。精緻で、整然とした体系。もはや興奮しちゃう。
 厳粛に幾何学的手続きに従い、神を起点として、人間精神の営みを解き明かし、理性を讃え、各人が理性に従って生きることこそが人類全体にとっての善であると、説く。
 
◆感想
スピノザという人の哲学に、感動した。
 17世後半のオランダ。
スピノザは、それ以前の著作における神に関する記述をもって、涜神者、無神論者の誹りを受ける。
そのことは、彼の生きた時代と場所において、身の危険を意味した。
彼の友人であり、保護者(スポンサー的な)であった政治家が虐殺されると、その反対派によって、オランダ議会は席巻される。
スピノザは、彼との関係から涜神/無神論者と目されることを恐れた知人らから攻撃を受けるようになり、また、その著作は発禁処分となる。
そのような圧倒的な憂き目の中において、彼は、無常な自己の神を信仰し、人間の理性への信頼を抱き続ける。
本書は、気が遠くなる努力の結晶、確たる信仰心、高潔な倫理だ。
 
「人間に人間ほど有益なものはない。」
 
人間不信にならざるべからざるような境遇において、どうすればそのようなことを言いうるのだろう。
 
哲人、という当たり前な呼称が、改めて、浮かんできた。
 
◆勉強してて
 自然言語が好きだ。厳密に一義に決定することなどできはしないのに、それでも合意の範囲を探る努力を私たちは続けることを与儀なくされている。
 そのような、そもそも厳密な数学的演繹による体系の構築に不向き、というよりも、それと相入れない、そんなツールを用い、高密度の努力によって危うい体系を築くその営みに、敬意を表さずにおれない。
 「わかる」ことは「わける」ことだ。
 人間は、インクの沁みにすらパターンを見出さずにはおれない。
 壮大な、沁みのパターン分析の事業だと思う。
 ぼくは美しい「無駄」を愛する。それをまた、確認した。
  
 
 
 

2012.5.22

句集を読むのが難しい。

 

十七字ごとに現れる異なる世界をいくつも体験する作業。正気の沙汰じゃない。

読んでいて、気が遠くなる。

いくつの世界を読んだのだろうか。しかし、頁にして、五。

 

俳句は、言語で思考せずに読み進めることを許してくれない。

読み進めることによる無意識的なその世界の像の補完を許してくれない。

 

特に、叙情的な俳句は、困る。

というか、水原秋桜子が、困る。

 

書き直した。ここまで。

また気が向いたら加筆する。

2012.5.20

落語を聞いた。

 

「寄席」という、落語を聞くための場所で、落語を聞いた。

小学生の時分、一時的ではあるが、落語に凝っていた時期があった。

一文に時が三回も出てきてややしつこい感だ。ごめんね。

主に、二つの視点から、書きたい。疲れたら書かないかも。

 

あのとき、小学生のとき、そこに、落語に、何か「違和感」を感じていたのかもしれない。そして、その「違和感」が何か気になり、落語、しかも同じものを繰り返し、聞いていたのかもしれない。

今回落語を聞いて、思った(記憶の捏造経てる可能性とかはいいの。)。

記憶の捏造とかいう話は、措く。フロイトとかわかんないし。

 

落語の噺は、評価の指標が、よくわからない。

面白さ、は、必ずしも、最重視される評価指標ではない。

しかし、無論、それを欠くことは許されない。

この、「面白さ」と、「ほかの指標」との間で揺れていて、どちらも取ろうととして、どうしようどうしようというような、どこか中庸的(どっちつかず的)な、そんなところが、好き。好き、で切るとなんか愛嬌でるね。

 

落語には独特な噺の技術があるが、これは、「面白さ」だけを追求した結果 とは思えない。だって、「すべらない話」のがおもろかったりするし。

 

どこか、「面白さ」から独立した一種の形式美的ななにかがそこにはあるようだ。

 

むろん、そういった要素は、何についても、ある。料理芸術とかさ。

 

あ、というか、「伝統」って往々にしてそういうものだったりするのかもしれない。

本質からいつの間にか乖離してしまった様式が、様式美、形式美としての性格を得る。本質から離れることで、逆に、新たな本質となる、そういうところがあるのか。

 

ぼくはそういう、「ある意味で無駄」なものがわりと好きなので、そういう感性に、落語も引っかかったのかもしれない。

 

ていうか、逆に言えば、だから、松本仁が落語好きなことについてあんまり良く思わなかったのかもしれない。

 

あぁなんか気づいたら、最初書こうとしてたことと全然ちゃうこと書いてる。

まぁでも、そんなもんでせう。