「地獄でなぜ悪い」
園子音監督「地獄でなぜ悪い」をだいぶ前に見ました。
今更その感想を書きます。むろんネタバレ含みます。
ぼくはそもそも映画を人並みにしか見ないので、園子温の作品はアレが初めてでした。
バイオレンスコメディーみたいな部類になるのでしょうか。
結論から言えば、とてもよかった。
内容を軽く。映画バカ3人組+将来に不安を抱くアクション俳優と、ヤクザの二つの組と、組長の娘&それに恋した平凡な男、という大きく3つのグループによって人間関係が構成されています。
偶然たまたま一瞬の出会いをしたこの三つのグループが、10年の時を経て再び相対(あいたい)し、最終的にはヤクザの抗争を映画撮影するところに収斂していく、というストーリー展開です。
この映画でおそらく最も印象的なところは、壮絶なバイオレンスとそのコメディー化、三人組の、狂気を感じさせるほどの圧倒的映画バカさです。
ただし、僕が気にいったのは、それ超えるストーリー構成としての滅茶苦茶感でした。
中盤までは、夢と現実の間で揺れる葛藤(アクション俳優)や、ヤクザの親分が妻への慕情を抱くようすを描いたり、「運命の糸」のようなものに導かれての再会を丁寧に計算したり、コメディー感もありながら、いわば「ちゃんと」しているのです。
ところが、あるところから歯車が急回転を始めると、血肉が飛ぶ凄惨な抗争を大喜びしながら映画バカたちが撮影しはじめ、最終的には一人を残して全員死ぬ、という伏線もへったくれもないような終わりを迎えます。
極めつけは、ラストのシーンです。生き残った映画バカ組のリーダー各が、大喜びしながらテープと音源を持って走っているシーンで、「はい、カットー」という(おそらく)園子温の声とともに、映画は幕を閉じます。
つまり、それまで丁寧に念入りに積み上げて作ってきた結晶を、一気に破壊して、最終的には、その作り上げてきた過程までも無価値化しまっているのです。
この、美しいものを破壊したいという衝動の現実化を、さらにもう一個上のレベルで否定する、という否定の仕組みが、もうまーじ気に入りました。
園子温が意図してやってるかやってないかは知りませんが、実際そういう構成になっていて(と僕は感じて)、非常に良かったでございます。
園子温の作品、他にもみたいなーと思いました。
つまり何が言いたいかと申しますと、たぶん自分からは見に行かないので新しいの出たら誰か教えてください。そして一緒にゆきましょう。
小布施若者会議とやらに参加してきた
参加してきた。
2,3回しか話したことない先輩に誘われたんです。バスの中で。いや「タダ」っていうワードに釣られたとかそんなんじゃないんです。そんなんじゃないんです。
ざっくり言いますと、230人の35歳以下の参加者が初対面の6人程度でチームを組まされ、計36チームがコンペ方式で町つくりプランをプレゼンする、というものでした。
あ、行程としては
9/6(金)
・朝7:30
池袋集合(平塚からゆくの無理だろJKゆえ新宿の友達の家に凸した)
・昼
小布施町につく。ちーむがわかる。男しかいない。帰りたい。
・昼さがり
一橋大教授の野中郁次郎先生と市村町長のトークセッションきく。ねむくない。
・昼さがりさがり
小布施町ツアー。街並みきれい。写メとかはちょっとめんどかったごめんなさい。仲良くなってきた。たのしい。
・夕方
チームミーティング。仲良くなってきた。楽しい。
・夕下がり
民泊先へゆく。おばあちゃん一人暮らし。みたらい、おばあちゃんより先に寝だす。9時間以上寝た。池袋7:30集合なのがわるい。でも起きてちょっと反省した。
9/7(土)
・昼前くらいから昼にかけて
町長のお宅にお邪魔してお話きいた。玄関にビールサーバーあった。取っ手ひねったらほんとにビール噴射した。なかったことにした。(前日のトークセッションで「ご自由にお飲みください(笑)」みたいなこと言ってたんだもの)
・昼
ミス小布施とちーむのみんなとごはん食べた。ミス小布施は喋るとボロが出るタイプだった。かわいいは正義。
・昼過ぎから夕方
パネルディスカッションきいたりみんなと話したり。
・夕方
飯。チーム以外の人と席についた。隣人妻だった。深い意味はないですよ。
・夜
風呂。体洗ってるとき全裸のイケメンに話しかけられて緊張した。露天風呂、柵の向こう側がすぐ女湯で、いや、なんでもないです。なんでもないんです。
・もっと夜
町図書テラソという図書館で、朝まで徹夜で議論。午前1時と午前5時に我慢できなくて飲んじゃった。誰もお酒とは言ってないよ。顔が赤いのは日焼けかもしれないじゃないか。
9/8(日)(最終日)
・朝から昼にかけて
プレゼン。予選と本選(決勝)があった。なんやかんや、36チーム中2位で、入賞景品としてなんかすげーいろいろもらった。うれしい。
・プレゼン後
弁当3人分食べたらひじょうに眠くなって企業家?のお話を拝聴する最後のイベント蹴って荷物置き場で寝てた。精根尽き果て顔してたとおもう。※ただしイケメンは腐ってもイケメン。
なんか箇条書きになっておもんない感じですが、あしたもうちょっとちゃんと感想とか書きます。
これ、ちーむのみんな。ちーむおっさんです。
トイ・ストーリー2
「トイ・ストーリー2」を見た
「1」はわりかしありがちな、インテリアメリカ人による自己批判的な色彩ばかり強かった印象がある。(ごめんでも昔なのであまし覚えてなす)
また、その自己批判も、最大の根拠は「実害」に求められており(そこについては本作でも同様だが)、どこか空腹感が残った。
ところで、これは大きく話がずれるが、「道徳」を、「害」と結び付けて説明することはあまり意味がない。規範を守らないことを根拠に害が与えられ、また、害が与えられることを根拠に規範の遵守を求めるという、循環論法的な状況に陥る(循環論法ではないがなんて呼ぶかしらない)。「道徳」は、ただそれ自体において尊重しなければならない性格のものだ。まじずれた。
本作では、それよりも、「トイ(本作に登場するおもちゃたち)」からの視点に移入することで、見える示唆が面白い。
「2」では、先に触れたことの他に、「持ち主の子供」と「トイ」との関係性を強く打ち出している。特に、「トイ」のアイデンティティが、「持ち主の子供」と結び付けられることで説明される。
主人公(?)「アンディ」の「トイ」達が、カウボーイの人形である「ウッディ」救出のためにおもちゃ屋に向かうシーンがある。ここで、登場するのが、大量の「バズ・ライトイヤー」。まったく同質な「バズ・ライトイヤー」達のなかで、「バズ」が単独者としての「バズ」であり得るのは、ひとえに、「アンディ」との関係性においてだ。
また、「ウッディ」は「プロスペクター」の説得から、通俗的な「名誉」への誘いに折れ、「アンディ」よりも「名誉」をとろうとする。しかしその後、内省を経て、「トイ」としての喜びは「持ち主の子供」に愛されることだと、唐突と書くも過ぎないような心情の変化(遡及)を見せ、「改心」する。
ここでの「持ち主の子供」は、まさに「人間の子供」であり、無償の愛を注ぐと思えば、唐突に無邪気な残忍性/暴力性を発露させる。さらに、何をするかわからない存在として描かれる。「子供」の「トイ」への態度に、「トイ」達は本質的な抵抗力を持たず、それどころか、影響力を及ぼすことすらできない。そのような存在の愛を仮定し受容し、また、「トイ」も彼/彼女を愛する。双方の愛がすなわち「トイ」の幸福であり、「トイ」はそれを無条件に信じ、ただひたすらに愛に努める他ない。さらに、同質的な、平面的な集団の中で、垂直的な彼/彼女との関係においてのみ、「トイ」は単独であり得る。
つまり、ここで「子供」は、「神」として描かれる。特に、その愛の保証が一切ない、ユダヤ的な神である。
本作は、本当の「信仰」を見出す(取り戻す)ための、「神(アンディ)」の「僕(ウッディ)」による「旅」の物語なのかもしれない。「トイ・ストーリー2」は「宗教」以前の、「信仰」の賛美の物語なのかもしれない。
トイ・ストーリー2
「トイ・ストーリー2」を見た
「1」はわりかしありがちな、インテリアメリカ人による自己批判的な色彩ばかり強かった印象がある。(ごめんでも昔なのであまし覚えてなす)
また、その自己批判も、最大の根拠は「実害」に求められており(そこについては本作でも同様だが)、どこか空腹感が残った。
ところで、これは大きく話がずれるが、「道徳」を、「害」と結び付けて説明することはあまり意味がない。規範を守らないことを根拠に害が与えられ、また、害が与えられることを根拠に規範の遵守を求めるという、循環論法的な状況に陥る(循環論法ではないがなんて呼ぶかしらない)。「道徳」は、ただそれ自体において尊重しなければならない性格のものだ。まじずれた。
本作では、それよりも、「トイ(本作に登場するおもちゃたち)」からの視点に移入することで、見える示唆が面白い。
「2」では、先に触れたことの他に、「持ち主の子供」と「トイ」との関係性を強く打ち出している。特に、「トイ」のアイデンティティが、「持ち主の子供」と結び付けられることで説明される。
主人公(?)「アンディ」の「トイ」達が、カウボーイの人形である「ウッディ」救出のためにおもちゃ屋に向かうシーンがある。ここで、登場するのが、大量の「バズ・ライトイヤー」。まったく同質な「バズ・ライトイヤー」達のなかで、「バズ」が単独者としての「バズ」であり得るのは、ひとえに、「アンディ」との関係性においてだ。
また、「ウッディ」は「プロスペクター」の説得から、通俗的な「名誉」への誘いに折れ、「アンディ」よりも「名誉」をとろうとする。しかしその後、内省を経て、「トイ」としての喜びは「持ち主の子供」に愛されることだと、唐突と書くも過ぎないような心情の変化(遡及)を見せ、「改心」する。
ここでの「持ち主の子供」は、まさに「人間の子供」であり、無償の愛を注ぐと思えば、唐突に無邪気な残忍性/暴力性を発露させる。さらに、何をするかわからない存在として描かれる。「子供」の決定に、「トイ」達は本質的な抵抗力を持たない。そのような存在の愛を仮定し受容し、また、「トイ」も彼/彼女を愛する。双方の愛がすなわち「トイ」の幸福であり、「トイ」はそれを無条件に信じて努める他ない。さらに、同質的な、平面的な集団の中で、垂直的な彼/彼女との関係においてのみ、「トイ」は単独であり得る。これはまさに、「神」といえる。
本作は、本当の「信仰」を見出す(取り戻す)ための、「神」の「僕」による「旅」の物語なのかもしれない。「宗教」以前の、「信仰」の賛美の物語なのかもしれない。
最後に余談だが、ここでの「神」はとてもユダヤ的。偉い人が誰かしらユダヤ人かもしくはプロテスタントなんじゃねえかなとか思ってますがどうなのかしら。
じつは、というはなし
ぼく、じつは、2浪の一年生とおんなしじゃね、という。
大学1年生のときはなにもしないでずーっと「いきるのつらい冷凍保存されたい寝たらそのまま目がさめたくないつらいつらいつらい」みたいなことを言ってたら気づいたら3月で、まじなんもしてない
そのあと休学して受験勉強(死)して、ほんとに浪人生とおなじ生活送ってたわけですしおすし神栖市*1
だから、勉強足りてないのぜんぜん当たり前じゃんていうかむしろその割にはマシじゃね、といって自分を慰められる*2のと、あとは、全然勉強足りてないのにあと2年しかないとかもうしぬしかないやばいピンチ焦る、といって自分に発破をかけられて、
何書こうとしたか忘れた。
とりあえず、
許してあげつつ、焦ろう、というはなし。
「時代」として片づけるのは無思考のごまかしなのかもしれない話
「ユークリッドの言論」より
【定義】
点は部分をもたないものである.
線とは幅のない長さである.
線の端は点である.
直線とはその上にある点について一様な線である.
面は長さと幅のみをもつものである.
【公理】
同じものに等しいものは互いに等しい.
等しいものに等しいものを加えれば,また等しい.
等しいものから,等しいものを引けば,残りは等しい.
互いに重なり合うものは互いに等しい.
全体は部分より大きい
ここから、さまざまな命題が導かれ、それらは全て真なわけです。
「三角形の内角の和は二直角である」とか。
これを考えれば、スピノザやデカルトの神の証明を、まったくバカにできないことがわかる。
ちゃんと定義された言葉からちゃんとした手続きによって導かれた命題は、永遠に現実に真である、そういうふうに、この原論は読めないだろうか。反語なので、「いや読める」って言ってます。読めるんです。
哲学的な意味でない、いわゆる自然界には、「部分を持たない点」などは存在しない。しかし、・←を仮に「点」とした場合も、厳密に精密に精確に作業をすれば、仮の三角形の仮の内角の和は、180°に近似となる。
このことが、形相*1が実在する、ということの証左と考えられたとして、それを簡単に否定できるだろうか。いやまぁ否定はできるけど、でも簡単じゃない。ぼく一人でパっと見でできないし。
このことから、ちゃんと定義(ry)真である+その真なる観念(命題)は実在する、ということが考えられる。
これを、「時代」の前提のためと言っていいのだろうか。そゆことまで考えたいなぁ、とおもうわけです。自戒自戒。