2012.5.20
落語を聞いた。
「寄席」という、落語を聞くための場所で、落語を聞いた。
小学生の時分、一時的ではあるが、落語に凝っていた時期があった。
一文に時が三回も出てきてややしつこい感だ。ごめんね。
主に、二つの視点から、書きたい。疲れたら書かないかも。
あのとき、小学生のとき、そこに、落語に、何か「違和感」を感じていたのかもしれない。そして、その「違和感」が何か気になり、落語、しかも同じものを繰り返し、聞いていたのかもしれない。
今回落語を聞いて、思った(記憶の捏造経てる可能性とかはいいの。)。
記憶の捏造とかいう話は、措く。フロイトとかわかんないし。
落語の噺は、評価の指標が、よくわからない。
面白さ、は、必ずしも、最重視される評価指標ではない。
しかし、無論、それを欠くことは許されない。
この、「面白さ」と、「ほかの指標」との間で揺れていて、どちらも取ろうととして、どうしようどうしようというような、どこか中庸的(どっちつかず的)な、そんなところが、好き。好き、で切るとなんか愛嬌でるね。
落語には独特な噺の技術があるが、これは、「面白さ」だけを追求した結果 とは思えない。だって、「すべらない話」のがおもろかったりするし。
どこか、「面白さ」から独立した一種の形式美的ななにかがそこにはあるようだ。
むろん、そういった要素は、何についても、ある。料理芸術とかさ。
あ、というか、「伝統」って往々にしてそういうものだったりするのかもしれない。
本質からいつの間にか乖離してしまった様式が、様式美、形式美としての性格を得る。本質から離れることで、逆に、新たな本質となる、そういうところがあるのか。
ぼくはそういう、「ある意味で無駄」なものがわりと好きなので、そういう感性に、落語も引っかかったのかもしれない。
ていうか、逆に言えば、だから、松本仁が落語好きなことについてあんまり良く思わなかったのかもしれない。
あぁなんか気づいたら、最初書こうとしてたことと全然ちゃうこと書いてる。
まぁでも、そんなもんでせう。