「時代」として片づけるのは無思考のごまかしなのかもしれない話
「ユークリッドの言論」より
【定義】
点は部分をもたないものである.
線とは幅のない長さである.
線の端は点である.
直線とはその上にある点について一様な線である.
面は長さと幅のみをもつものである.
【公理】
同じものに等しいものは互いに等しい.
等しいものに等しいものを加えれば,また等しい.
等しいものから,等しいものを引けば,残りは等しい.
互いに重なり合うものは互いに等しい.
全体は部分より大きい
ここから、さまざまな命題が導かれ、それらは全て真なわけです。
「三角形の内角の和は二直角である」とか。
これを考えれば、スピノザやデカルトの神の証明を、まったくバカにできないことがわかる。
ちゃんと定義された言葉からちゃんとした手続きによって導かれた命題は、永遠に現実に真である、そういうふうに、この原論は読めないだろうか。反語なので、「いや読める」って言ってます。読めるんです。
哲学的な意味でない、いわゆる自然界には、「部分を持たない点」などは存在しない。しかし、・←を仮に「点」とした場合も、厳密に精密に精確に作業をすれば、仮の三角形の仮の内角の和は、180°に近似となる。
このことが、形相*1が実在する、ということの証左と考えられたとして、それを簡単に否定できるだろうか。いやまぁ否定はできるけど、でも簡単じゃない。ぼく一人でパっと見でできないし。
このことから、ちゃんと定義(ry)真である+その真なる観念(命題)は実在する、ということが考えられる。
これを、「時代」の前提のためと言っていいのだろうか。そゆことまで考えたいなぁ、とおもうわけです。自戒自戒。