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コンサータとかいう人類の叡智の結晶

トイ・ストーリー2

トイ・ストーリー2」を見た

 

 「1」はわりかしありがちな、インテリアメリカ人による自己批判的な色彩ばかり強かった印象がある。(ごめんでも昔なのであまし覚えてなす)

また、その自己批判も、最大の根拠は「実害」に求められており(そこについては本作でも同様だが)、どこか空腹感が残った。

 

 ところで、これは大きく話がずれるが、「道徳」を、「害」と結び付けて説明することはあまり意味がない。規範を守らないことを根拠に害が与えられ、また、害が与えられることを根拠に規範の遵守を求めるという、循環論法的な状況に陥る(循環論法ではないがなんて呼ぶかしらない)。「道徳」は、ただそれ自体において尊重しなければならない性格のものだ。まじずれた。

 

 本作では、それよりも、「トイ(本作に登場するおもちゃたち)」からの視点に移入することで、見える示唆が面白い。

 「2」では、先に触れたことの他に、「持ち主の子供」と「トイ」との関係性を強く打ち出している。特に、「トイ」のアイデンティティが、「持ち主の子供」と結び付けられることで説明される。

主人公(?)「アンディ」の「トイ」達が、カウボーイの人形である「ウッディ」救出のためにおもちゃ屋に向かうシーンがある。ここで、登場するのが、大量の「バズ・ライトイヤー」。まったく同質な「バズ・ライトイヤー」達のなかで、「バズ」が単独者としての「バズ」であり得るのは、ひとえに、「アンディ」との関係性においてだ。

 また、「ウッディ」は「プロスペクター」の説得から、通俗的な「名誉」への誘いに折れ、「アンディ」よりも「名誉」をとろうとする。しかしその後、内省を経て、「トイ」としての喜びは「持ち主の子供」に愛されることだと、唐突と書くも過ぎないような心情の変化(遡及)を見せ、「改心」する。 

 ここでの「持ち主の子供」は、まさに「人間の子供」であり、無償の愛を注ぐと思えば、唐突に無邪気な残忍性/暴力性を発露させる。さらに、何をするかわからない存在として描かれる。「子供」の「トイ」への態度に、「トイ」達は本質的な抵抗力を持たず、それどころか、影響力を及ぼすことすらできない。そのような存在の愛を仮定し受容し、また、「トイ」も彼/彼女を愛する。双方の愛がすなわち「トイ」の幸福であり、「トイ」はそれを無条件に信じ、ただひたすらに愛に努める他ない。さらに、同質的な、平面的な集団の中で、垂直的な彼/彼女との関係においてのみ、「トイ」は単独であり得る。

 つまり、ここで「子供」は、「神」として描かれる。特に、その愛の保証が一切ない、ユダヤ的な神である。

 本作は、本当の「信仰」を見出す(取り戻す)ための、「神(アンディ)」の「僕(ウッディ)」による「旅」の物語なのかもしれない。「トイ・ストーリー2」は「宗教」以前の、「信仰」の賛美の物語なのかもしれない。